2012年6月30日土曜日

精神感応のお話


精神感応、ふつうは日本語でもテレバシーともいいますね。

小林さんの「信ずることと知ること」には、このことについてが主題 と言っていいぐらい、精神感応の話が出てきます。

このまえ、この「信ずることと知ること」の元となった講演のCDを 「信ずることと考えること」を聞いて、ずいぶん考えたことがあるので、 少し私も述べさせて頂こうと思います。

しかし、文章にした方の「信ずることと知ること」を主に扱いたいと思います。 やっぱり、小林さんは文章ですからね。

「信ずることと知ること」の始め、戦争で夫が亡くなるときの夢の話が出てきます。それで、この話を話している人は非常にまじめな方なので私はそのことを信じるが、しかし、この手の話はたくさんあって当たるものと全く外れるものがある。どうして、当たるものだけを取り上げないといけないか?と言った医者の話が出てきます。

そこに、若い娘さんがいて、先生の話は論理的には正しいけれど、 私にはどうしても間違ってると思います。と言ったという、 居合わせたベルグソンは、その娘さんが正しいと思ったと言います。

このように科学的経験主義は、計量の出来ないような経験を無視してしまう、ということから講演は展開していきます。 どれほど小林さんが当時の科学的経験主義の限界というものを考え抜いていたか、というのがよくわかる話です。言い方を変えれば、この「信ずることと知ること」で小林さんが強調したいのは、精神感応があるかどうかというよりその様なものを扱うときの科学的経験主義の限界が問題である、ということを強調しているのだと私は思っています。

逆の言い方をすれば、極端に言えば、つまるところ精神感応などはどうでもいい。そんなものは女の勘とでも呼べばいいものであって、科学で何でも説明できるとおもうように、精神感応で最終的に何でもかんでも説明しようというのは、また、科学的経験主義と同じように間違っているということでしょう。


小林さんは、つぎに、民俗学者の柳田国男さんの幼いときの話をします。それは、柳田さんが、ほこらに奉ってあった、 おばあさんの蝋石を見たときの話です。

幼い頃の柳田さんは病弱で、学校にも行かず、本がたくさんあった近くの家の倉に通って本ばかり読んでいた。いろんな事を知っていたようです。

そんなあるとき、柳田さんはほこらを開けそこに奉ってあった蝋石を見た。このとき柳田さんは14歳だったといいます。14歳と言ってもその当時は多分数えで年を数えていたでしょうから、現在の年の数え方で言うと12,3歳でしょう。少し長いですが、引用します。

『実に美しい珠を見た。
とその時、不思議な、実に奇妙な感じにおそわれたというのです。
そこにしゃがんでしまって、ふっと空を見上げた。
実に良く晴れた春の空で真っ青な空に数十の星がきらめくのが見えたという。
(中略)
昼間星が見える筈(はず)がないと考えたし、
今頃見える星は自分らの知った星ではのだから、
別に探し回る必要もないとさえ考えた。
けれども、その奇妙な興奮はどうしてもとれない。
その時鵯(ひよどり)が高空で、ぴぃっと鳴いた。
その鵯の声を聞いた時に、はっと我に帰った。
そこで柳田さんはこう言っているのです。
もしも、鵯が鳴かなかったら、私は発狂していただろうと思う、と。』
(改行、ふりがなは私、筆者)

小林さんは、講演の時の話でも大変に感動したと強調しています。 柳田さんの学問を支えたのこの感受性であろうと。 その強調ぶりで、私は改めてこの辺りのことを思い出して考えさせられたのです。

このあと、この手の話は別に珍しいことではない、と柳田さんは続けているとあります。このような精神感応の事例は別に珍しいことではない。将に正夢を見るがごとくです。

さて、柳田さんはおばあさんの魂を確かに見たのであるが、 ぴぃっとヒヨドリが鳴いたから元に戻ったという柳田さんの感受性が学問を支えた。と小林さんは述べています。私もそう思う。決して、ヒヨドリと精神感応して現実に戻って来たと言うことはないでしょう。

もちろん、魂を見たということの経験をしっかりと確信し続けたからこそ柳田さんの学問があったというのは 小林さんも強調しています。そこは、科学的経験主義だけでは いけないことを強調したいために強調しすぎるくらいと思いますが、この両方がないといけない、と私は思います。


ところで、この「信ずることと知ること」言葉は比較的平易なのですが、 ずいぶん難解な文章です。このあと、「山の生活」から「遠野物語」 へと続いていき、ふたたび、柳田さんの特異な経験が語られることになります。そこでは、話をわかりやすくするために、小林さんが柳田さんの 「遠野物語」(六一)を引用してるのですが、わたしもその部分を少し詳しく取り上げて、上記、不思議な経験をしたのは確かに経験したのであるということと、それでも、我々は常識的な現実社会の中で生きているというその両面が大事だという態度を強調したいと思います。

しかし、その前に、講演の方で、小林さんが、本居宣長の神様の話を少ししてたのを思い出したので、それを少しだけさせてもらいましょう。

小林秀雄さんの講演などから知ったのですが、本居宣長という人は大変な研究者でいろんな事を勉強して知っていたそうです。

その小林さんの講演では、本居宣長が日本の神様について言ったことは、ごく単純です。むかしは、それぞれの人が、たとえば自分の子供を健やかに育てて下さいとおねがいして それを聞き遂げてくれるような神様だけをそれぞれに 信じていたそうです。そういう、それぞれの体験に於いて健全であると認めた神様だけをそれぞれのやり方で信じていたというのが、日本の神様への信仰の原型だというのです。

では、柳田国男さんの「遠野物語」(六一)をここで紹介しておきます。私が簡単に現代語風に訳してして紹介しますが、名文なので機会が有れば是非原文で読んで下さい。

『ある狩人が白い鹿と逢った。白鹿は神なりという言い伝えがあり もし、傷つけて殺すことが出来なければ必ず祟りがあるだろうと恐れたが、名誉を重んじる狩人でもあったため世間から何を言われるかということも恐れ、思い切って白い鹿めがけて鉄砲を撃った。 ところが、手応えはあるけれど白い鹿は動かない。このとき大変に胸騒ぎがして、日頃魔除けとして身につけておいた黄金の弾に(魔除けの効果があると言われる)よもぎを巻き付けて撃った。鹿はなお動かない。あまりに怪しく思い近寄って見ると、良く鹿の形に似た白い石であった。

何十年も山の中に暮らしている者が、まさか石と鹿を見誤るはずもなく、全く魔障(魔障:仏教用語で悪魔のようなモノ)のしわだざと、この時ばかりはもう猟を止めようかと思った。』
(改行は私、筆者。以下の引用文も同様))

さて、この文に対する小林さんの言葉を少し引用しましょう。

『少し注意して、猟人の語ることを聞くなら、
伝説に知性の不足しか見ないような眼が、
いかに洞(うつ)ろなものかは、すぐ解るだろう。
この伝説に登場する猟人は、
白鹿は神なりという伝説を、
まことか嘘かと、誰の力も借りず、
己の行為によって吟味しているではないか。
そして遂に彼は「全く魔障の仕業なりけり」と確かめる。
「猟を止めばや」と思うほどの、非常な衝撃のうちに確かめる。
(中略)だが、彼は猟を止めない。日常生活の合理性は、
自分の宗教的経験に一向に抵触する所がないという、
当たり前な理由によると見て少しも差支えないでしょう』

で、これから先少々難しい話が出てくるのですが、ようするに、

『遠野の伝説劇に登場するこの人物が柳田さんの心を捕らえたのは、
その生活の中心部が、万人のごとく考えず、全く自分流に信じ、
信じたところに責任を持つと言うところにあった、その事だった
と言ってもいいことになりましょう』

という言葉に収束すると思います。

つまり、彼の個性と感性が、白鹿の神との遭遇に於いて 理性をめいっぱいに働かせ、自分の責任に於いてこれを確かめ 「まったく魔障の仕業なり」と「猟を止めばや」と思うような 衝撃を受けながらも、あいかわらず山の中での日常生活を続けていく。

これは、全く柳田さんが幼い頃の体験と同じくわれわれは、不思議と隣り合わせに暮らしながら、我々の知性と感性を持ってこれを確かめ日常の生活を続けていく。その様なことが健全であると言わずに何というのでしょうか。


このあと、小林さんの話は、以前にも紹介した柳田さんの「妖怪談義」の話をして終わりにしています。

あなたはやはり、オバケのことを考えたときに未だに「にやり」としますか?その「にやり」はどこから来るのでしょうね。やはり「にやり」と笑わせなければ、オバケと言えないのでしょうね。


初出:
精神感応の話(上)mixi 2009年03月30日
精神感応の話(下)mixi 2009年04月02日

以上を、合わせてひとつの記事にし、一部加筆修正、「精神感応のお話」と改題

元の原稿はそれぞれ、ブログ、ベルクソン「物質と記憶」メモでも読めます。
アドレス:
 精神感応の話(上) http://etsurohonda.blogspot.jp/2010/01/mixi20090330.html
 精神感応の話(下) http://etsurohonda.blogspot.jp/2010/01/mixi20090402.html

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