2012年6月30日土曜日

New Ageと小林秀雄


私は、いわゆるニューエイジムーブメントがあまり好きではない。ニューエイジと分類されるようなリラクゼーションミュージックを聴いたりすることはあるが、おつきあいとしてはそれくらいである。

私は、小林秀雄さんの言うこと中山正和という人の創造工学とかその様な本を読んで、良いと思ったことを紹介する事にしている。

実は、予備校時代から創造性に関してはずいぶん本を買ったりして勉強した。例えば川喜田二郎氏のKJ法とかも実践しようとして、 京大カードを購入し、日記やポケコンのプログラムなどを書いたモノが今でも手元に残っている。

色々誤解を招い足りすることもあるようだが、わたしは、魂があると思うが、その魂というものの不思議について考え続けているだけである。

小林秀雄さんに「信ずることと知ること」という作品があるが、小林秀雄さんは、民俗学の柳田国男さんの晩年にずいぶん話を聞きにいかれた様子がある。

そのことはなんかの対談でいっていた記憶があるのだが、 もとは、柳田国男さんの「故郷70年」という本を読んで大変感動された所から始まっていた、と思う。

その辺については未だに考えてることがあるのでそのうちに書くこともあるだろうが、「信ずることと知ること」では 柳田国男さんの「妖怪談義」を少々紹介して終わっている。

少し引用してみよう。

『歴史家に限らない。今日の一般の人々にお化けの話をまじめに訊ねても
まじめな答えは決して返ってこない。にやりと笑われるだけだ。
と柳田さんは書いているが、これは大変鋭敏な表現でして、
この笑いは、お化けの話に対して、現代人が取っている曖昧な態度
と言うよりも不真面目な態度を、端的に表していると、
柳田さんは見ているのです。』
(改行は筆者)

ここからあとの小林さんの調子は大変激しいものがあるので 是非一度読んでいただきたいのだが、ようするに、『にやりと笑わせるようなものがなければお化けとは言えまい。』 という言葉に集約されるようである。

このことは大変難しいことで、文中でもこのような柳田国男さんの言葉を引いている。
『「我々はオバケはどうでも居ると思った人が、昔は大いに有り
今でも少しはある理由が、判らないので困っているだけである」』
昔から柳田国男さんという碩学もこのようなことに悩んでいた。 わたしは、このようなことを引き継いで考えている、というだけなのだ。

初出:mixi 2009年03月25日 一部加筆修正
修正前の原稿は、ブログ、ベルクソン「物質と記憶」メモ、で読むことができます。
(アドレス:http://etsurohonda.blogspot.jp/2010/01/new-age-mixi20090325.html)

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