2019年11月23日土曜日

麻三斤

予備校に通っていた頃、それでも希望の大学に入れなかった当時の私は、自分の学力に絶望し「創造性」という言葉に縋るようになった。そのころ湯川秀樹氏の対談「天才の世界」を読んで痺れたり、川喜田二郎氏のKJ法を真似したりもした。そのころだろう、中山正和氏の「なまけ禅」に興味を持ち、氏の著作に載っている公案を解くようになった。なんとなく公案を解くことで分かったのは、仏は絶対に自分の思うようものではない、すなわち仏は絶対不可知ということだろうか。それは、「麻三斤」という公案を解いている時ふと何か腑に落ちた気がしたからだ。悟りを得たとは思わない。そんなことは不遜であるのはもちろん、愚昧なる私がそんなことになるとは思えないからである。悟りなどそんな簡単なものではないだろう。
ところで、小林秀雄さんには公案のような問いがいくつもある。その一つに出典がわからないのが申し訳ないのであるが、ソクラテスのダイモンはどうして禁止しかしなかったのか、という問いがある。私はこれも一つの公案だと思って考えていた。
 結局、これは自由意志の問題だろうと思う。すべてをダイモンが決定してしまうのであればソクラテスの意志はどこにもないことになるからだ。
  さて、我々の自由意志は基本的には常識と良心に基づいて行動しているところにあるという意味で、自由意志と良心の間には深い関係があることは明らかだが、「良心」(新潮社 小林秀雄全作品 第23集)という作品では、もしうそ発見器が万能でだれもが嘘を付いたり悪いことしたりすることができなくなった時、「その理由はただ為ようにもできないからにすぎず、良心を持つ事は、誰にもできなくなるだろう」(同p.81)と書かれている。では、ソクラテスには、良心がなかったのだろうか。
このソクラテスのダイモンについて「悪魔的なもの」において小林さんはこう説明されている。
彼にとって、自意識とは、よく生きんが為に統一され集中された意志に他ならず、この意識は不知なるものの大海に浮んではいるが、その不知なるものが、人間の意識なぞより、遥かに巨大な、完全なもう一つの意識であることを否定する理由は少しもないのである。ソクラテスの不知なるものとは、そのようなものに思われる。ダイモンは、啓示的な精神としてしか、彼には現れ得ない(同第21集 p.292)
我々の良心というものは、意識だけで判断するものではない、「良心は、はっきりと命令しないし、強制もしまい。本居宣長が、見破っていたように、恐らく、良心とは、理知ではなく情なのである」(「良心」同第23集p.84)とも言われている。
 
 私はベルクソンの「物質と記憶」の説に基づいて、自由意志とはもともと動物が物理法則とは異なる行動の選択肢を持つことから始まったのではないかと考えている。しかしベルクソンの議論では、感情は「知覚」に関する余計な夾雑物と考えられ議論からは排されている。ところが、我々の行動を決定づけるのに重要な「良心」は無意識の働きによるものであり「情」であると小林さんは指摘されている。もう少し「良心」から続きを引用してみると、
彼は、人生を考えるただ一つの確実な手がかりとして、内的に経験される人間の『実情』というものを選んだ。では、何故、彼は、この貴重なものを、敢て「はかなく、女々しき」ものと呼んだのか。それは、個人の「感慨」のうちにしか生きられず、組織化され、社会化された力となる事が出来ないからだ。社会の通念の力と結び、男らしい正義面など出来ないからだ。「物のあはれを知る心」は、その自発的な力で生きていれば、充分な何かである。彼の有名な「物のあはれの説」は、単なる文学説でも、美学でもない。それは寧ろ良心の説と呼んでいいものである。彼は、歌の道をたずねる事から始めて、はっきりと命の敬虔に到達した、徹底した思想家である(同p.84)
このことは、「本居宣長」第19章の「『歌のまなび』と『道のまなび』との二つの観念の間に、宣長にとって飛躍や矛盾は考えられていなかった」(同第27集p.213)という部分にも通じている。すなわち、「歌の道」を追究したところに生じる「もののあわれを知る」ということは円熟し「道のまなび」となってくると言えるのだろうが、特に良心の問題においては言葉の問題が非常に密接に関係しているそれを初めて明らかにしたのが本居宣長である、という指摘ともなるのだろう。言い換えれば、「ソクラテスの不知なるもの」とも呼ばれている「人間の意識なぞより、遥かに巨大な、完全なもう一つの意識」、それが「歌の道」であり、言葉の世界ということになるのではないか、というのは飛躍のしすぎであろうか。
繰り返しになるが、「感慨」が生まれてくるところに良心が生じる。それは、「欲」と「情」が異なる所以である。例えば「本居宣長」第14章では、
「欲」は、実生活の必要なり目的なりを追って、そのために、己を消費するものだが、「情」は、己れを顧み、「感慨」を生み出す。生み出された「感慨」は、自主的な意識の世界を形成する傾向があり、感慨が認識を誘い、認識が感慨を呼ぶ動きを重ねているうちに、豊かにもなり、深くもなり、遂に、「欲」の世界から抜け出て自立する喜びに育つのだが、喜びが、喜びに耐ええず、その出口を物語という表現に求めるのも亦、まったく自然なことだ。(同p.153)
とある。「欲」から「情」が離れて「感慨」を生み出し、それが表現の世界と成る、と言い換えてもいいのだろう。表現の世界はすなわち良心の世界である、という信念。これは、「人間の建設」(同第25集)において、岡潔がピカソの絵を無明を書いていると批判したところに賛同されていた部分にもつながると私は思う。
さて、「悪魔的なもの」は次のように結ばれている。
ダイモンが死を啓示するなら、彼は進んで死ななければならない。そういう不思議なことが遂に起る。『弁明』のなかでソクラテスは言う、「不思議なことが起った-この事件に関する限り、行動においても、言論においても、日頃あんなに頻繁に聞えていたダイモンの合図は沈黙してしまったのである」。ソクラテス自身が、ダイモンと化そうとする時、ダイモンは、彼に何を合図する必要があったろうか(同第21集 p292-293)
よく生きる事は、よく死ぬ事だろう」(「生と死」同26集p.144)とも言われている。「生は、私達の持ち物ではない。私達が生に依存しているのだ」(「天命を知るとは」同24集p.189)との言い方からすれば、我々の生は自分自身でコントロールできない。それは、我々の言葉がそれ自体で生きているように。
ソクラテスは死を目前にして自分が「ダイモンと化」することになった。となれば、ソクラテスの生きざま、ソクラテスの対話がすべて昇華され、「人間の意識なぞより、遥かに巨大な、完全なもう一つの意識」に化すること すなわち、表現の世界のものとなったということになる。これもまた不思議なことだと思わざるを得ない。

 我々の死は我々の生の完結された姿であるのはもちろん、そこには精神が精神について悟得する働き」(「常識について」同25集 p.111)である一種の飛躍があるのだろうと最近考えている。言葉が生まれてくるところと同じように、死という我々の生の完成には飛躍がある。そこには、なんの悟りがましいものもなく、こうであるというものをすべて否定している。そのことが、難解な「本居宣長」の中でも特に謎とされる第一章の宣長の遺言書が表しているものではないのだろうか。私はいつものように遺言書の謎の周りをグルグルと回りながら、そのようなことを良く考えている。

2019年11月17日日曜日

考えるということ

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌 「好・信・楽」2019910月号にある有馬 雄祐氏の記事「常識について」は大変参考になる記事だった。

 小林秀雄先生の「常識」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集所収)を取り上げ、まずフレーム問題について触れ、それから将棋を指す人工知能についてのことに話は流れていくのであるが、そこではこう述べられている。

小林さんの『常識』という文章は、自らが学生時代に翻訳を手掛けた『メールツェルの将棋指し』の話で始まる。将棋を指すイカサマの機械が登場するこの物語の主人公であるエドガア・ポオは、「将棋盤の駒の動きは、一手々々、対局者の新たな判断に基づくのだから、これを機械仕掛と考えるわけにはいかない。何処かに人間が隠れているに決まっている」という常識的な考えを手放さず、機械の目的が将棋を指すことにあるのではなく、人間を上手く隠す事にあるという事実を暴く。常識から出発し、これを手放さず、粘り強く考え続けること、その困難と大切さがポオの物語を通じて語られる。また、将棋を指す計算機は常識に反するものとして、未来におけるその実現の可能性がそれとなく否定されもする。
今、人工知能は驚異的な発展を遂げている。2016年にはディープマインド社の人工知能アルファ碁が、人類最高の棋士の一人に勝利した。人工知能の黎明期にその礎を築いたノーバート・ウィーナーでさえ、「もちろんメールツェルの詐欺機械のような”強い”機械はできないであろうが」と、そう考えていたのだから、現代のAIの躍進は人類の殆ど誰しもが予想だにしなかった事件であると言える。人類のテクノロジーは、ポオを含むかつての人々が抱いた常識の一面を越えていった。とは言え、私たちが私生活において発揮している常識をAIは未だ手にしてはいない。

こうも言っておられる

 「汎用人工知能」の実現がAIの次なる課題であると言われているが、AIが盤上という枠組みを越えて、私達が暮らす境界線の無い実生活で上手に機能できるか否かは分からない。AIの知性は、狭く、硬いのである。

私は個人的には、汎用人工知能は可能でないかと考えている。先も述べたように有馬氏は「フレーム問題」ということにも触れられているが、現実的な人間の行動に物理的制約がある限り有限である。確かに約束事をたくさん増やすとその組み合わせは無限に近い数字になってくる。例えば、将棋の手の組み合わせは、最低で10220囲碁では10330と言われている。いかなるコンピュータもこれを読み切ることは難しいというのが常識であり現実である。ところがコンピュータの計算速度の向上とともに、「読まない技術」というものが発達してきた。それはある局面の優劣が計算できるようになったという意味である。ある局面から枝分かれしてまた枝分かれしていくことによって局面は無限に近い数になるのであるが、その中で有力な局面だけを選んで計算することができれば、枝分かれの数は減るだろう。その有力な局面かどうかを計算する方法が確立してきたというのが、囲碁や将棋の人工知能が人間を上回ることになった大きな理由である。

 しかし、それは、あらかじめたくさんの局面を用意して計算することによってどの局面が(正確にはどのようなコマの配置が)有利であるかということを計算しているという意味でもある。それはそれで大変難しいことであるが、勝ち負けというゴールが決まっている勝負事であるからこそできることだとも言える。有馬氏が「AIの知性は、狭く、硬い」と言っているのはこの意味であろう。

 たくさんの場面から、最適の行動を選ぶ。自動車の自動運転を端緒として人間が直感的に行動している場面の状態を目的に合わせて評価して最適な行動を計算し選び取る。そのことは、単純に技術的問題となってきている。コンピュータは量子コンピュータが実用化されれば現在のコンピュータの性能とは何桁も違う計算性能を持つ。現在の場面の優劣を計算し判断するいわば人間の「直観」に相当する部分も「ディープラーニング」という人間の脳の神経回路を真似た手法が有望視されていること、これが私が汎用人工知能は将来可能であると考える理由である。

 ところで、有馬氏は、「最後にもう少し、より根本的な問題に触れて常識の話を終える」と「クオリア」の話をされている。引用してみよう。

(前略)私達の経験を形づくる独特の質感は現代では「クオリア」という言葉で呼ばれ、計算機がこれを持ち得るか否かについての哲学的な議論が続けられている。

私達が現に体感している経験の質感を計算機が持ち得るか否か、ここで私見を主張するつもりはない。ただ、そうした経験の最も深い謎に関わる哲学的な問いと、AIに常識が持ち得るかという技術的な問いの間には、案外に密接な関係があるに違いないと個人的にはそう思う。赤い物を見て、青でも緑でもなく、そこに赤らしさを感じること。感覚を形作る私達の質感は、知の確かな土台として、私達の判断を根底において支えてくれているものだ。これがなければ、経験から考え、過去を振り返ることが全く意味を成さなくなる。従って、独特の直観とでも言うべき私達の感覚は、私達にとって最も根源的な常識であると言えるだろう。

これも、大変参考になる意見だ。ただ私は、「質感」を説明するのに「クオリア」を必要とみなしていない。単に、有馬氏の言葉を借りれば「経験から考え、過去を振り返ること」すなわち記憶の問題とみなしている。それも何とかクオリアだという人もいるのだろうが門外漢であるせいだろうかそれとも無知なせいなのか、そのような議論についてはどうでもいい議論であるように思える。

 私は、もう少し小林先生の文章を考えてみたい。「直観精読」という言葉は将棋界の大棋士、加藤一二三九段の言葉らしいのであるのだが、小林先生は「常識」でこのように述べられている。

 将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはいない。熟慮断行という全く人間的な活動の純粋な型を表している

例えば、これはクオリアで説明できることであろうか。現実の場面は、すべて読み切ることはできない。だからこそ、どこかで行動を求められる。その行動は、熟慮してもよみきれない未来にいわば「投企」することによって委ねられることになる。その行動のもととなるものは記憶であろうし、未来を予感する「直観」にある。

例えば碁打ちの上手が、何時間も、生き生きと考える事が出来るのは、一つあるいは若干の着手を先ず発見しているからだ。発見しているから、これを実地について確かめる読みというものが可能なのだ。人々は普通、これを逆に考え勝ちだ。読みという分析から、着手という発見に到ると考えるが、そんな不自然な心の動き方はありはしない。ありそうな気がするだけです。それが、下手の考え休むに似たり、という言葉の真意である。(同第25「常識について」

 このような結論が先に来るようなわれわれの「直観」は人工知能が局面の優劣を判断するときの計算による「直観」とは似ているようでまるで違うことは、言うまでもないことであろう。

人工知能が発達してきたが、我々が「考える」ということと人工知能が「計算する」ということは、いまだに違っている。

多くの現実的問題に関して、将来現在の手法でも人工知能は我々よりより良い解を出すようになるに違いないと私は確信している。もしかしたら、われわれの結論が先に来る直観も「無意識」の中での異様な速度の「計算」であると判明する時が来るかもしれない。
しかし、そうした将来に、人工知能は我々と同じ生きているといえる時が来るのであろうか。チューリングテストや、他人の家でコーヒーを入れることができる(ウォズニアックテスト)ようになったとしても、不器用な我々は、一度きりの人生を多くの苦さ、辛さの味わいを合わせて味わいながら生きている。その意味で、人工知能はまだ本当に生きてはいない。計算しつくした局面に当てはめて考えて数値を比較しているだけだ。人工知能が我々のような「生」を持つかどうか。私にはそれが最大の興味であり、そこを熟考することが、小林先生の、人生において様々に実験を繰り返してきた「熟慮断行」の味わいと言えるのではないだろうか。

2019年11月9日土曜日

「解釈」についての思い出

 小林秀雄に学ぶ塾 同人誌「好*信*楽」2018年10月号に記事を載せていただいた時のことである。何度も改稿したのだが、初期の草稿に二か所ほど「解釈」という言葉を使ったところ、編集の方に注意されて書き直したことがある。

 Webマガジン「考える人」の「随筆 小林秀雄   四十九 人間性が鳴り渡る」を読んでいただくと、そこで「解釈」ということがどうしていけないかを小林秀雄に学ぶ塾 塾頭 池田雅延氏が書かれているが、この記事が2018年10月15日に公開されていることを考慮すると、私の草稿が影響したのは言うまでもないことだろう。

 その後、池田塾長には、2019年4月にあった小林秀雄に学ぶ塾 in 広島でお会いしてお話をさせていただいたことは、同じく小林秀雄に学ぶ塾 同人誌「好*信*楽」 2019年5,6月号で記事にさせていただいた。この時書かなかったが、懇親会から池田塾長が少し早めに退席されるときに、少しお話した時の別れ際に、もう解釈などと書かないように、との意味のご発言があった。

 まことに恥ずかしい話であるが、ふと思い出したので記事にしておこうと思った。