2012年7月2日月曜日

小林さんの真淵と宣長


【概要】

小林秀雄の「本居宣長」。この本のテーマの一つで最も重大なテーマが本居宣長の古事記解読であろう。

ここでは、古事記解読で賀茂真淵と本居宣長の取った対照的なアプローチの違いをごく簡単に説明し、なぜ本居宣長のアプローチならば解読可能だったかということを説明する。

即ち、宣長は自己言及パラドックスに陥らないようにすることにより、例えば大過去(例えば、古事記の内容)を思い出すという過程(これが「古事記」のような記録として伝わることになる)が、現在(例えば、即ち賀茂真淵や本居宣長の「古事記」の解読の作業)において成功する訳であるが、それらアプローチを対比させ、さらに、それらについての考察から、われわれの本来の記憶が全くの演繹的あるいは再帰的な構造を持たないいわゆる「ベタ」な形であろうことを述べる。

また、そのことにより、記憶を語るために用いられる言語も本来的にはいわゆる「ベタ」な形を取るということ、したがって、グレゴリー・チャイティンのΩ数はそのためにまったくランダムになるのではないかという仮説を提案する。

【本論】

賀茂真淵と本居宣長は師弟関係にあった。

万葉の注釈、とくに冠詞(いわゆる枕詞)の研究を通じて師弟関係になった彼等は、次に古事記の解読へと向かう。

この時、賀茂真淵は、古事記の解読が万葉解読の延長にあると考えていた。万葉の延長とは、祝詞・宣命であり、つまりは文字がなかった時代から残っている言葉の発音の法則を研究することから、古事記を読み解こうとしたわけである。

一方、宣長は、そのような方法はとらなかった。古代の人が何を考えどのように行動していたか、そのような方法からしか、古事記は読みほどけないと思っていた。

宣長は、日本の儒教研究から強い影響を受けていた。老子が、自然を尊ぶことに言及することによって自己言及パラドックスに陥ったという指摘が、すでに当時から荻生徂徠によって指摘されていた。したがって、宣長は、その思想を残すときに、自己言及パラドックスに陥らないように、ただただ、その思想を自分が解読した体験と信念をそのまま述べたのである。これが、小林秀雄の「本居宣長」に書いてある、最も重要な点の一つであろう。

ここからは、人生について何かを言おうとしたら、自己言及パラドックスに陥る、ということになれば、記憶はそのままの形で保存してあると考えるのがもっとも合理的ではないかということを考察してみたい。

まず、以下のような思い出しの行動における自己統一性について考察をしてみる。

卑近な例として次のような例を挙げよう。

昨日の午後3時におやつに何を食べたか思い出そうとする。その瞬間が今朝の9時だとする。そして、三十秒後の9時0分30秒に思い出したとする。つまり、9時0分30秒まで自分は、9時の自分を思い出す操作をしながら3時のおやつを思い出す操作を30秒間やり続ける。

記憶がただそのままでベタであり続ければ俯瞰できるから、そのことによって自己同一性は確保できるだろう。

一方で、自己同一性を保つための作業の中に、過去を思い出すことが演繹的に入っていれば、それは多数の時間が入れ子状になっていて次から次から過去が被さってきて破綻する。30秒間、3時のおやつを思い出そうとする自分を思い出そうとして、次の瞬間その自分を思い出そうとして、という具合に。

次に、今のような作業は、メタ的な自己を仮定することによって解決可能だとするとしよう。(しかし、その時には、思い出されたところの記憶や自分自身についての自己統一性に関してはいわゆる「ベタ」な形になってしまっていないといけないわけであるが、そこについては、棚上げにしてみる)。もしくは、私の思いつかないような、ほかのうまい手段がってその方法で演繹的に思い出すことができたとしよう。

二つ目の反例として以下の例を挙げよう。

次の日に、先ほどの自分を思い出すとしたとき、つまり、明くる日になって、昨日の9時0分30秒の自分を思い出すとする。

そのときの思い差しの行動をした自分はすでに過去で、演繹的に思い出すとするなら、昨日の9時0分30秒の自分が、3時のおやつを思い出す自分を思い出すわけだ。これは明らかに矛盾する。昨日の9時0分30秒の自分がどうやって3時のおやつを思い出すのか。

これについては、さらに合理的な説明はなかなか思いつかない。今度はそこでは再帰的に思い出すということになるのだろうか。思い出すということに関して、そんなに複雑な行動をわれわれが取っているとは、私個人的な意見としては、なかなか信じがたいものがある。

さらに言及すれば、再帰的に演算したとして、その演算結果が過去に思い出したのと同じかどうかを確かめる答えはどこにあるのだろう。同一だと思うのはなぜかも説明しないといけない。その記憶の同一性はアプリオリに保証されているというのであろうか。

私は、ベルクソンが、二つの記憶があって、一つは感覚-運動系のベルクソンが純粋記憶とか純粋想起とか言っているもので、もうひとつ、枠に入り込んでくるイマージュ想起とか言っているベタにある記憶というものがどうしても必要じゃないかということにたいする、小林秀雄の論理的帰結がここにある、と考えている。

【言語と言語を扱う脳の構造に対する考察】

さらに、言語が、元来、記憶を語るものであり、人類が相当の長い期間、文字を持たず、即ち、いわゆる観念を弄ぶ事がなかった、ということを考慮に入れると、言語も本来的構造としていわゆる「ベタ」であること、すなわち、われわれの言語を司る脳の構造は元来そのようにできているのではないか、という仮説を提案する。このことは、間接的にではありますが、茂木健一郎氏の示唆によるものであり(と言っても私がそう思っているだけかもしれないのですが)、また、このことは、グレゴリー・チャイティン氏のΩ数が全くのランダムであることが、そのことを直接的に裏付ける一つの証拠として挙げられることを指摘しておきたい。

【終わりに】

単なる感想となりますが、小林秀雄さんのすごいところは、「本居宣長」をちゃんと読めば、記憶が演繹可能と過程したときに起こる自己言及パラドックスを体験として理解できるように考慮してあるという事じゃないだろうかと思うのです。過去の過去ということを想起することが自己言及パラドックスを引き起こす、ということの指摘、あるいは、文字を使い出すようになって発達したいわゆる観念を、単にオブジェクト指向プログラミングでいうオブジェクトのように扱うだけであれば、本当の意味では理解ない、ということも、また、肝要なのだと思います。

言い方を変えて簡単に言えば、解き方はこういう形でないと解けないということを読めば知らず知らずに分かるように教えて下さっているような気がするのです。

複雑で、これまでと比べれば比較的長い文章を最後まで読んで頂きありがとうございました。

初出:mixi 小林さんの真淵と宣長 2011年03月06日

筆者注:
元々の文章は、しばしば、間接的に嫌がらせの形をとった論難に対する反駁で有ったために、文章としてかなり荒れている。そのようなものであったがために、今回の公開に当たっては、できるだけ内容は変更しないように気をつけながらも、相応の編集、加筆修正を行い、タイトルだけはそのままに提示することにした。

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