2024年5月6日月曜日

「麻三斤」におけるベルクソンの感情についての説明の訂正

 もう5年近くにになるだろうか。「麻三斤という文章を書いた。ところが、最近になってこの文章で大きな間違いをしていることに気づいた。「麻三斤」では、良心と芸術の問題、特に良心が情であることに触れている。この論の中で私は「物質と記憶」で論じられている部分のみを見て「しかしベルクソンの議論では、感情は『知覚』に関する余計な夾雑物と考えられ議論からは排されている」と述べていた。

 ところが、ベルクソンは、「道徳と宗教の二源泉(原題 Les deux sources de la morale et de la religion)」(以下「二源泉」と省略)において、本能から発する身内への愛やそれから導き出される社会愛と違って人類全体に対する愛は全く違うと言う。そして、自己愛や社会愛をもたらす元となっている「社会的圧力の対を成す力はなんだろうか。迷う余地はない。本能と習慣とを除けば、直接的に意思に働きかけるものとしてはただ一つ感受性(サンシビリテ)の働きしかない。感情(サンチマン)の及ぼす駆動力は、もともと責務に近いものと言える。恋愛の熱情を、とくにそれのまず萠し(きざし)始めたときのそれを分析してみよ。(中略)『せねばならぬからせねばならぬ』のだ。」(節「情動と駆動力」)と指摘する。ここから先の論述はまたいつか書こうと思っている論にて説明したいと思うが、ここでは「人類愛」が「感情(サンチマン)」の働きによるものだということを簡単に眺めていただければ済む。ベルクソンは「情動に二つの種類を、感情に二つの様相を、また感受性にも二つの発現形態を区別しなくてはならぬ」(節「情動と駆動力」)のように感情にも二種類存在することを指摘しており、私は、この部分を失念し「麻三斤」で間違った論を組み立てていたのである。粗忽にも程があるというものであり、本当に申し訳なく思う。

 


※ 訳文は森口美都男訳 ベルクソン「道徳と宗教の二つの源泉」(中公クラッシックス)による



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