小林秀雄に学ぶ塾 同人誌 「好・信・楽」2019年9・10月号にある有馬
雄祐氏の記事「常識について」は大変参考になる記事だった。
小林秀雄先生の「常識」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集所収)を取り上げ、まずフレーム問題について触れ、それから将棋を指す人工知能についてのことに話は流れていくのであるが、そこではこう述べられている。
小林さんの『常識』という文章は、自らが学生時代に翻訳を手掛けた『メールツェルの将棋指し』の話で始まる。将棋を指すイカサマの機械が登場するこの物語の主人公であるエドガア・ポオは、「将棋盤の駒の動きは、一手々々、対局者の新たな判断に基づくのだから、これを機械仕掛と考えるわけにはいかない。何処かに人間が隠れているに決まっている」という常識的な考えを手放さず、機械の目的が将棋を指すことにあるのではなく、人間を上手く隠す事にあるという事実を暴く。常識から出発し、これを手放さず、粘り強く考え続けること、その困難と大切さがポオの物語を通じて語られる。また、将棋を指す計算機は常識に反するものとして、未来におけるその実現の可能性がそれとなく否定されもする。
今、人工知能は驚異的な発展を遂げている。2016年にはディープマインド社の人工知能アルファ碁が、人類最高の棋士の一人に勝利した。人工知能の黎明期にその礎を築いたノーバート・ウィーナーでさえ、「もちろんメールツェルの詐欺機械のような”強い”機械はできないであろうが」と、そう考えていたのだから、現代のAIの躍進は人類の殆ど誰しもが予想だにしなかった事件であると言える。人類のテクノロジーは、ポオを含むかつての人々が抱いた常識の一面を越えていった。とは言え、私たちが私生活において発揮している常識をAIは未だ手にしてはいない。
こうも言っておられる
「汎用人工知能」の実現がAIの次なる課題であると言われているが、AIが盤上という枠組みを越えて、私達が暮らす境界線の無い実生活で上手に機能できるか否かは分からない。AIの知性は、狭く、硬いのである。
私は個人的には、汎用人工知能は可能でないかと考えている。先も述べたように有馬氏は「フレーム問題」ということにも触れられているが、現実的な人間の行動に物理的制約がある限り有限である。確かに約束事をたくさん増やすとその組み合わせは無限に近い数字になってくる。例えば、将棋の手の組み合わせは、最低で10の220乗、囲碁では10の330乗と言われている。いかなるコンピュータもこれを読み切ることは難しいというのが常識であり現実である。ところがコンピュータの計算速度の向上とともに、「読まない技術」というものが発達してきた。それはある局面の優劣が計算できるようになったという意味である。ある局面から枝分かれしてまた枝分かれしていくことによって局面は無限に近い数になるのであるが、その中で有力な局面だけを選んで計算することができれば、枝分かれの数は減るだろう。その有力な局面かどうかを計算する方法が確立してきたというのが、囲碁や将棋の人工知能が人間を上回ることになった大きな理由である。
しかし、それは、あらかじめたくさんの局面を用意して計算することによってどの局面が(正確にはどのようなコマの配置が)有利であるかということを計算しているという意味でもある。それはそれで大変難しいことであるが、勝ち負けというゴールが決まっている勝負事であるからこそできることだとも言える。有馬氏が「AIの知性は、狭く、硬い」と言っているのはこの意味であろう。
たくさんの場面から、最適の行動を選ぶ。自動車の自動運転を端緒として人間が直感的に行動している場面の状態を目的に合わせて評価して最適な行動を計算し選び取る。そのことは、単純に技術的問題となってきている。コンピュータは量子コンピュータが実用化されれば現在のコンピュータの性能とは何桁も違う計算性能を持つ。現在の場面の優劣を計算し判断するいわば人間の「直観」に相当する部分も「ディープラーニング」という人間の脳の神経回路を真似た手法が有望視されていること、これが私が汎用人工知能は将来可能であると考える理由である。
ところで、有馬氏は、「最後にもう少し、より根本的な問題に触れて常識の話を終える」と「クオリア」の話をされている。引用してみよう。
(前略)私達の経験を形づくる独特の質感は現代では「クオリア」という言葉で呼ばれ、計算機がこれを持ち得るか否かについての哲学的な議論が続けられている。
私達が現に体感している経験の質感を計算機が持ち得るか否か、ここで私見を主張するつもりはない。ただ、そうした経験の最も深い謎に関わる哲学的な問いと、AIに常識が持ち得るかという技術的な問いの間には、案外に密接な関係があるに違いないと個人的にはそう思う。赤い物を見て、青でも緑でもなく、そこに赤らしさを感じること。感覚を形作る私達の質感は、知の確かな土台として、私達の判断を根底において支えてくれているものだ。これがなければ、経験から考え、過去を振り返ることが全く意味を成さなくなる。従って、独特の直観とでも言うべき私達の感覚は、私達にとって最も根源的な常識であると言えるだろう。
これも、大変参考になる意見だ。ただ私は、「質感」を説明するのに「クオリア」を必要とみなしていない。単に、有馬氏の言葉を借りれば「経験から考え、過去を振り返ること」すなわち記憶の問題とみなしている。それも何とかクオリアだという人もいるのだろうが門外漢であるせいだろうかそれとも無知なせいなのか、そのような議論についてはどうでもいい議論であるように思える。
私は、もう少し小林先生の文章を考えてみたい。「直観精読」という言葉は将棋界の大棋士、加藤一二三九段の言葉らしいのであるのだが、小林先生は「常識」でこのように述べられている。
将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはいない。熟慮断行という全く人間的な活動の純粋な型を表している
例えば、これはクオリアで説明できることであろうか。現実の場面は、すべて読み切ることはできない。だからこそ、どこかで行動を求められる。その行動は、熟慮してもよみきれない未来にいわば「投企」することによって委ねられることになる。その行動のもととなるものは記憶であろうし、未来を予感する「直観」にある。
例えば碁打ちの上手が、何時間も、生き生きと考える事が出来るのは、一つあるいは若干の着手を先ず発見しているからだ。発見しているから、これを実地について確かめる読みというものが可能なのだ。人々は普通、これを逆に考え勝ちだ。読みという分析から、着手という発見に到ると考えるが、そんな不自然な心の動き方はありはしない。ありそうな気がするだけです。それが、下手の考え休むに似たり、という言葉の真意である。(同第25集「常識について」)
このような結論が先に来るようなわれわれの「直観」は人工知能が局面の優劣を判断するときの計算による「直観」とは似ているようでまるで違うことは、言うまでもないことであろう。
人工知能が発達してきたが、我々が「考える」ということと人工知能が「計算する」ということは、いまだに違っている。
多くの現実的問題に関して、将来現在の手法でも人工知能は我々よりより良い解を出すようになるに違いないと私は確信している。もしかしたら、われわれの結論が先に来る直観も「無意識」の中での異様な速度の「計算」であると判明する時が来るかもしれない。
しかし、そうした将来に、人工知能は我々と同じ生きているといえる時が来るのであろうか。チューリングテストや、他人の家でコーヒーを入れることができる(ウォズニアックテスト)ようになったとしても、不器用な我々は、一度きりの人生を多くの苦さ、辛さの味わいを合わせて味わいながら生きている。その意味で、人工知能はまだ本当に生きてはいない。計算しつくした局面に当てはめて考えて数値を比較しているだけだ。人工知能が我々のような「生」を持つかどうか。私にはそれが最大の興味であり、そこを熟考することが、小林先生の、人生において様々に実験を繰り返してきた「熟慮断行」の味わいと言えるのではないだろうか。